沖縄県におけるハンセン病政策の変遷
| ①旧沖縄県時代 | ||
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| 1907年(明治40年) 3月 1931年(昭和 6年) 4月 |
「法律第11号」(患者救済法) 「らい予防法」(患者施設隔離法) |
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| ②米国軍政府時代(占領政策時代) | ||
| 1946年(昭和21年) 2月 1946年(昭和21年) 3月 1946年(昭和21年) 4月 |
軍指令第15号(患者隔離取締令) 軍指令第16号(住民及び軍人の施設入所禁止令) 「らい患者の処置」に関する特別布告第13号 (患者施設隔離取締を主体とした「らい予防法」) |
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| ③米国民政府(琉球政府)時代 | ||
| 1961年(昭和36年) 8月 | 「ハンセン氏病予防法」 (治療を主体とした入所者の退所と在宅治療を認める) |
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| ④復帰後の沖縄県時代 | ||
| 1972年(昭和47年) 5月 1972年(昭和47年) 5月 1996年(平成 8年) 4月 |
「沖縄振興開発特別措置法」 (入所者の退所及び厚生事業並びに在宅治療を認める) 「らい予防法」の施行 (実際には前述の特別措置により隔離法は否定された) 「らい予防法」廃止 |
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ハンセン氏病予防法の特徴(琉球政府公布)
1961年(昭和36年)8月琉球政府によって制定された「ハンセン氏病予防法」は、 治る時代を迎えた斬新な政策を象徴する如く、名称を「らい予防法」とせず、「ハンセン氏病予防法」と称し、
その内容には治療によって軽快した入所者の退所と非伝染性患者の「在宅治療」を認めていた。
※琉球政府公布
患者への偏見と迫害の歴史
1927年(昭和2年)徳島県出身の青木恵哉は、熊本回春病院長、ハンナ・リデル女史の指示を受け、誰からも救らいの手を伸べられていなかった病者救済のため沖縄に渡り洞窟やアダンの葉陰に隠れ住む病者たちを救済していた。
然し、地域住民の病者に対する偏見と迫害は烈しく、青木のもとに集った一行は、1932年(昭和7年)3月、羽地村を中心に起った地元住民の療養所設置反対の「嵐山事件」、1935年(昭和10年)6月屋部、安和に起った住民の「患者焼打事件」「ジヤルマ島逃避行」などの迫害に苦しめられていた。
沖縄MTLの病者救済(沖縄キリスト教救癩協会)
1935年(昭和10年)沖縄のキリスト教界の牧師たちを中心に病者救済のための「沖縄MTL」が結成され、1937年(昭和12年)屋我地島大堂原に「沖縄MTL相談所」を設置し、青木たち一行を救済した。
沖縄県内の療養所設置
1931年(昭和6年)宮古島平良町島尻に宮古保養院(現・宮古南静園)が創設され、次いで1938年(昭和13年)3月には「沖縄MTL相談所」を礎に国頭愛楽園(現・沖縄愛楽園)が設置された。
外来診療所の設置
1961年8月「ハンセン氏病予防法」の公布に基づき、「沖縄らい予防協会」は各地に外来診療所を設置した。
- 1962年(昭和36年)6月 那覇診療所
- 1970年(昭和45年)2月 宮古診療所
- 1970年(昭和45年)5月 八重山診療所
(八重山ではこれより先、1958年(昭和33年)4月、八重山保健所で在宅治療を始めていた。)
在宅治療の効果
外来・在宅治療制度は病者を療養所に入所・隔離することなく、社会人、家庭の人として治療を行い、病者の社会性を尊重した治療を行うことを主体とした対策である。その上、早期発見と早期治療の実のあがる対策である。
下表の示す如く外来治療制度を開始するや施設隔離を恐れ在野に隠れていた未治療の病者たちは治療を求めて、外来診療所に集り、新患者の登録数は一時著明に増加する。これにより治療が行きわたり、以後新患者の発生は顕著に減少していく。沖縄では1962年(昭和37年)外来治療を始めた一時期、1967年(昭和42年)には年間173名もの新患者登録を見たが40年近くたった2005年(平成17年)及び2006年(平成18年)には、はじめて沖縄県内の新発生患者は「0」を記録したが、2007年(平成19年)は1名及び2008年(平成20年)1名の新患者が発見された。2009年(平成21年)は新患の発生はなかった。
沖縄県ハンセン病新発生状況の推移
罹患率(人口1000人比)






